桃の節句(ひな祭り)は、3月3日ですね。私には娘がおりますので、お雛祭りは楽しい行事でした。
ところがお雛祭り用にお花屋さん売っている桃の花は小さい小さい蕾で、活けていてもそのうちお花も咲かないままポロポロと枝から落ちてしまうのです。(結構お高いのに悔しい~!)
「桃の節句」という名前がついているのに、桃が咲いていない!納得いかない!・・・と若いころ思っていました。
これは、江戸時代までの日本と、今の日本とで、使っているカレンダーの仕組みそのものが違うから起きていることです。この記事では、その違いを順番にご説明します。
江戸時代のカレンダー、太陰太陽暦
江戸時代までの日本では、「太陰太陽暦(たいいんたいようれき)」という暦が使われていました。
「太陰」は、月の古い呼び方です。太陰太陽暦は、日にちを数えるのに月(太陰)の満ち欠けを使い、季節がズレないように太陽の動きも使っていました。月と太陽、両方の名前が入っているのは、そのためです。
閏月(うるうづき)とは
新月から次の新月までを1ヶ月として数えるので、月の満ち欠けだけだと、1年が今より11日ほど短くなってしまいます。そこで、太陰太陽暦では、ときどき同じ月をもう一度くり返して、季節とのズレを調整していました。
たとえば、2月が終わったあと、もう一度2月が来ます。2回目の2月を「閏2月(うるうにがつ)」と呼びます。このくり返される月が「閏月」です。
閏月がある年は、1年が13ヶ月になります。閏月は、19年に7回ほどのペースで入るように計算されていました。
明治5年、グレゴリオ暦への切り替え
この太陰太陽暦が使われていたのは、明治5年12月2日までです。
明治5年11月9日、政府は「太陰暦をやめて太陽暦を採用する。来たる12月3日をもって、明治6年1月1日とする」というお知らせ(太政官布告)を出しました。このとき採用された太陽暦が、今、私たちが使っているグレゴリオ暦です。太陽の動きだけを基準にした暦で、1年が365日、うるう年に366日になる、あのカレンダーです。
つまり、太陰太陽暦でいう明治5年12月3日と、グレゴリオ暦でいう1873年1月1日は、同じ1日のことです。そのため、明治5年の12月は、1日と2日の、たった2日間で終わりました。
江戸時代の商売の仕方で、お盆と年末にそれまでのツケを回収する、そして年末の回収を逃せば次の回収はお盆になってしまう、というルールがありましたから、お商売をしている人は、その太政官布告にさぞかし驚いただろう、と想像されます。
ちなみに私の父から子供のころに聞いた話ですが、昭和40年台くらいまでは「ツケ払い」という習慣も残っていて、月末にはお店の人たちが会社まで取り立てに来る、ということも有ったようです。お店の人が来るとトイレに隠れてやり過ごそうとする人もいたとのこと。
なんだか人間味あふれる、呑気な印象を受けますね。
なぜ、そんなに急いだの?明治政府も大変だった・・
この暦の切り替えは、かなり急でした。発表から実施まで、わずか3週間ほどしかなかったのです。理由のひとつとして、お金の問題があったとされています。
できたばかりの明治政府は、お金にとても困っていました。江戸幕府を倒すための戦い、戊辰戦争(ぼしんせんそう)の費用がかさんだうえ、新しい国づくりにも、お金がかかりました。そして給料のしくみも変わりつつありました。江戸時代の武士の給料は、お米を年に何石、というように、1年単位で決められたものが基本でした。明治になると、政府は役人に、毎月お金で給料を払う「月給制」に切り替えていきます。
ところが、太陰太陽暦のままだと、翌年の明治6年には閏6月が入って、1年が13ヶ月になります。月給制だと、13回分の給料を払わなければなりません。グレゴリオ暦なら1年は12ヶ月ですから、12回分ですみます。この1ヶ月分の人件費を節約したかったことも、急な改暦の理由のひとつだったとされています。
二十四節気は、どちらの暦でも変わらない
ここで、大事なポイントがあります。
「立春」「雨水」「啓蟄」「春分」「清明」「穀雨」といった二十四節気は、地球の公転(地球が太陽のまわりを1周すること)だけで決まります。つまり、立春や冬至がやってくる「瞬間」そのものは、江戸時代の太陰太陽暦であっても、今のグレゴリオ暦であっても、まったく変わりません。暦によって変わるのは、その瞬間を「何月何日と呼ぶか」という、日付の呼び方の方だけです。
たとえば、立春は、今の暦(グレゴリオ暦)では毎年だいたい2月4日ごろ。冬至は、毎年だいたい12月22日ごろです。江戸時代の人たちも、同じ地球の公転をもとにして、立春や冬至を決めていました。ただ、その日を「何月何日」と呼ぶかが、江戸時代と今とで違っていた、ということです。
冬至を基準にした、十二支の月の数え方
太陰太陽暦の1ヶ月は、新月から新月までで区切ります。そして、どの十二支の月にするか、たとえば、寅の月とするのか、卯の月とするのかは、二十四節気で決めていました。
二十四節気は、節入り(せついり)が12個、中節(ちゅうせつ)が12個、あわせて24個で、節入りと中節が、交互に並んでいます。なお、中節は、一般には「中気(ちゅうき)」とも呼ばれますが、この記事では中節と呼びます。

図の白っぽいところが中節で、この中節によって、十二支の月が決まります。それを数字で1月とか2月とか呼ぶのは、暦によって違います。外側の2つの輪のうち、内側が太陰太陽暦、つまり江戸時代の呼び方で、いちばん外側がグレゴリオ暦の呼び方です。
十二支の月を決めるために使うのは、「雨水」や「春分」や「穀雨」などの、中節です。冬至や大寒も中節で、冬至の入っている月は子の月、大寒の入っている月は丑の月、雨水の入っている月は寅の月です。
| 十二支の月 | その月に入る中節 | 太陰太陽暦の月 (江戸時代) |
グレゴリオ暦の月 (おおよその目安) |
|---|---|---|---|
| 子(ね) | 冬至 | 11月 | 12月ごろ |
| 丑(うし) | 大寒 | 12月 | 1月ごろ |
| 寅(とら) | 雨水 | 1月(正月) | 2月ごろ |
| 卯(う) | 春分 | 2月 | 3月ごろ |
| 辰(たつ) | 穀雨 | 3月 | 4月ごろ |
| 巳(み) | 小満 | 4月 | 5月ごろ |
| 午(うま) | 夏至 | 5月 | 6月ごろ |
| 未(ひつじ) | 大暑 | 6月 | 7月ごろ |
| 申(さる) | 処暑 | 7月 | 8月ごろ |
| 酉(とり) | 秋分 | 8月 | 9月ごろ |
| 戌(いぬ) | 霜降 | 9月 | 10月ごろ |
| 亥(い) | 小雪 | 10月 | 11月ごろ |
※ 太陰太陽暦の月は年によって前後に少しずれるため、グレゴリオ暦の月はおおよその目安です。
なぜ、冬至の入っている月が「子の月」なのか
ひとつめの理由は、冬至が、1年の基準にされた特別な日だったことです。冬至は、1年でいちばん昼が短い日です。太陽の力がいちばん弱まって、そこから再び強くなっていく、大切な節目の日だと考えられていました。
もうひとつは、十二支の「子」が、真北の方角を表す言葉でもあることです。十二支は、もともと方角も表していて、子は真北、卯は真東、午は真南、酉は真西です。昔の中国の人たちは、夜空の北斗七星を、季節を知る目印にしていました。北斗七星は、ひしゃくの形に並んだ七つの星で、その柄(え)の向きが、季節とともに回っていきます。そして、冬至のころの夕方には、柄が真北を向くとされていました。そこで、太陰太陽暦では、冬至が入っている月を「子(ね)の月」と決めました。
太陰太陽暦では、この「子の月」は11月です。今のグレゴリオ暦では、だいたい12月ごろにあたります。冬至を含む月が子の月、というのは今も昔も同じですが、月の数え方が1ヶ月ほどずれているのは、先ほど書いた明治5年の改暦で、数え方が切り替わったためです。
江戸時代のお正月は「寅の月」
太陰太陽暦では、子の月(11月)から数えて、子の月=11月、丑の月=12月、寅の月=1月(正月)と進みます。冬至の月から2ヶ月あとの1月が、お正月です。そのお正月の月が、十二支の「寅(とら)の月」にあたります。つまり、江戸時代のお正月は「寅の月」だった、ということになります。
寅の月は、梅のつぼみがふくらんで、咲きはじめるころです。この季節は、江戸時代も今も変わりません。なぜなら、「寅の月」は、二十四節気、つまり地球の公転によって決まっているからです。年賀状に、梅の絵が描かれているのを見たことはありませんか?「新春」「初春」「迎春」という言葉も、お正月が、梅のつぼみがふくらむ春の始まりのころだったことの名残とされています。
春の予感を感じる寅の月がお正月、というのは、四季と共に生きる日本人の心情として、しっくり来るな、と思います。
ほかの月も、同じ決め方です。春分が入る月は卯(う)の月、夏至が入る月は午(うま)の月、秋分が入る月は酉(とり)の月になります。
ちなみに、私は和風月名が好きなのですが、その中の4月を「卯月(うづき)」と呼ぶのは、和風の月の名前で「卯の花が咲くころ」という意味です。これは十二支の月とは別のものです。十二支の卯の月は2月ですので、卯の月と卯月がごっちゃにならないようにしてくださいね。
閏月は、どう決めていたのか
では、江戸時代に季節を合わせるために入れていた閏月は、どう決めていたのでしょうか。
新月から次の新月までは約29.5日、中節は約30.4日おきに来ます。そのため、少しずつズレていき、ときどき、中節が1つも入らない月ができます。その月が、閏月です。
中節が入らないので、十二支の何の月かを決められないため、十二支の名前はつきません。前の月が2月なら閏2月、前の月が6月なら閏6月です。ですから、閏月があっても、十二支の月が13個に増えるわけではありません。
江戸時代のお正月と、東洋占術の年の始まり
ここで、「年の始まり」と呼ばれる日を整理しておきましょう。全部で3つあります。
| 年の始まり | 決め方 | グレゴリオ暦での時期 | |
|---|---|---|---|
| 1つ目 | グレゴリオ暦の1月1日 (今の私たちのお正月) |
暦で決まった日 | 1月1日。冬のまっただ中 |
| 2つ目 | 旧正月 (太陰太陽暦のお正月。江戸時代のお正月) |
月の満ち欠け。新月の日が1日 | 毎年変わる(1月下旬から2月中旬ごろ) |
| 3つ目 | 立春 (東洋占術の年の始まり) |
地球の公転 | 毎年だいたい2月4日ごろ。ほとんど動かない |
2つ目の旧正月は、今も、中国や台湾、韓国などで、旧正月(春節)として祝われています。旧正月は月の満ち欠けで決まり、新月の日が1日になるので、寅の月の1日は、新月の日です。
旧正月と立春は、どちらも「寅の月の始まり」です。ただ、決め方が違います。旧正月は、月の満ち欠けで決まるので、毎年日付が変わります。立春は、地球の公転で決まるので、ほとんど動きません。時期は近くても、ぴったり同じ日になるとは限りません。
太陰太陽暦では、月が切り替わるのは、新月の日です。そして、その月の名前は、月の中に入っている中節で決まります。一方、九星気学や干支九星では、月の区切りに、節入りを使います。立春は、その節入りのひとつです。節入りで数えると、寅の月は、立春から始まります。ですから、九星気学や干支九星では、立春を、新しい年の始まりと考えます。
桃の節句に桃が咲いていない理由
では、最初の疑問に戻りましょう。桃の節句に、桃は咲いていたのでしょうか。
太陰太陽暦の3月3日は、グレゴリオ暦でいうと3月の終わりから4月の半ばごろにあたっていました。ちょうど桃の花が満開になる時期です。だから「桃の節句」と呼ばれるようになりました。
でも、明治5年の改暦で、「3月3日」という日付の呼び方だけが、そのままグレゴリオ暦に引っ越してしまいました。季節の方は置いてきぼりになってしまいました。だから今のグレゴリオ暦の3月3日には、まだ桃が咲いていない、というわけです。
🎁 メルマガ登録者だけの特別特典
登録者限定で、通常は有料の相性診断が無料で使える特別URLをプレゼント中! 命式・性格診断に加え、相性診断まで、全機能をお楽しみいただけます。
メルマガではブログ記事の更新や、動画の配信をお知らせしています。 登録無料・解除も自由です。ぜひお気軽にどうぞ。



コメント